アレキサンダーファン
2014年07月掲載
プロフィール
岩佐朋彦(いわさ・ともひこ) 岩佐朋彦
(いわさ・ともひこ)

1979年生まれ。宮崎県出身。武蔵野音楽大学附属高校を経て、武蔵野音楽大学卒業。ハンガリー・リスト音楽院を修了。現在、札幌交響楽団副首席奏者。

使用楽器:
アレキサンダー 103MBL
使用マウスピース:
アトリエモモ 33CX

第43回 プレーヤーズ
岩佐朋彦 インタビュー

国内外のホルンプレーヤーにスポットを当て、インタビューや対談を掲載するコーナー。
ホルンについてはもちろん、趣味や休日の過ごし方など、
普段知ることの無いプレーヤーの私生活についてもお伝えします。



─現在、札幌交響楽団の団員ですが、ご出身は?

 宮崎県の都城市です。高校・大学は東京なので、どんどん北に行っていますね(笑)。2008年に札響に入団したので、現在6年目です。


─札響はいかがですか?

 まず、定期演奏会を行なっている札幌コンサートホールKitaraが素晴らしいですね。東京にも良いホールはたくさんありますが、周辺の環境がヨーロッパに近いと思います。ホールは中島公園の中にありますし、札幌自体、町の中心部から車で30分も走ると山があって自然が豊かな土地ですから。今私が住んでいるのも、定山渓という温泉地から近いところで、温泉に入りに行こうと思えば10分かからずに行けます。


─岩佐さんはやはり吹奏楽でホルンを?

 はい。もともと幼い時から喘息やアトピー持ちで、それを改善するために剣道や水泳をやっていました。父は中学校の音楽の先生で、吹奏楽の顧問もしていましたが、その頃赴任していた学校が非常に熱心に活動する部活だったので一緒にいる時間があまり取れなくて、ちょっと「吹奏楽はやりたくないな」とも感じていました。
 きっかけは、中学に入る春休みに父の部屋で楽器のカタログを見ていて、トロンボーンとホルンとファゴットが目に入ったことなんです。弦楽器だったらチェロがやりたかったので、やはり中低音が好きだったんですね。それで入学式の演奏を聴いたらやっぱりやりたくなって、ホルン希望で吹奏楽部に入りました。なぜホルンだったかというと、5つ違いの姉がサックスをやっていたので木管はいいかなと。それで父に金管で何の楽器が一番難しかったの?と聞いたら「ホルンは音が出なかった」と。その一言ですね!「親父を超えたい」という願望ってあるじゃないですか。音楽をやる上で、父ができなかったホルンでなら、父親を超えることが可能かもしれないってその時に思ったんです。それで部活の体験で吹いてみたら音も出たので、ホルンをやることにしました。


─音楽高校に進もうと考えたのは?

 ホルンを始めて間もなく父から武蔵野音大高校の夏期講習の案内をもらい、「ちゃんとしたレッスンを受けてみたらどうだ」と言われて講習を受けに行き、「このような音楽に溢れた環境で勉強できたらいいな」と思うようになりました。


岩佐朋彦

─高校生で東京に出るのは大変でしたね。

 当時、九州で男子が入れる音楽科は大分にしかありませんでしたし、それなら大阪に行くのも東京に行くのも同じだということで、「東京に行っておいで」と親が言ってくれたんです。1年生の冬からは(故)田中(正大)先生にレッスンを受けるために東京まで通うことになり、吹奏楽部は残念ながら1年で辞めることになりました。


─どのくらいの頻度でレッスンに通っていたのですか。

 中学2年のときは月1回、3年のときは月2回くらい行っていました。先生からレッスンに毎月通わないといけないと言われた時「そんなことまでして音楽高校に行きたくない」と泣いたのを覚えています。とんでもないお金がかかることもわかりましたので。でも両親には「夢を追うんだったらそれなりの出費は覚悟している」と言われました。すごい決断ですよね。両親には本当に感謝しています。


─やはり、お父さんが自分で吹奏楽をやっているだけあって、理解があったんですね。

 そうですね。普通なら「行きたい」と言ってもダメでしょうから。逆に僕が引いてしまうような感じでした(笑)。




お腹を64針縫うような大けがを乗り越えて…

─レッスンはいかがでしたか。

 そのまま大学までずっと田中先生でしたが、最初からものすごく厳しかったです。まず、「音域によってアンブシュアが動かないように」と言われました。もちろん今は良い音を同じ音質で出せるためには口の中を変える必要があることはわかっていますが、当時は「絶対に変えてはいけない」と思っていましたし、先生が隣で見ていてちょっとでもアンブシュアが動くとポカッと来るくらい。そのくらい怖いレッスンだったので、何度も泣いてしまって、目が真っ赤になって外に出られなくて、次の人のレッスンを聴いていて落ち着いたら帰るということをしていました。それまでは吹奏楽で何となく、楽しくホルンを吹くというイメージだったのですが、憧れと現実が違うということがわかりました。でもそのおかげで、後で事故とかいろいろ苦しいことがあっても耐え切れたのかなと思いましたね。


─事故というのは?

 非常につらい出来事だったのですが、札響に入って8か月目くらいに、真冬の昼間に雪道を車で走っていてスリップし、自損事故を起こしてしまいました。ブラックアイスバーンというものです。足とお腹を大怪我して、お腹は64針くらい縫いました。腸も破裂してしまって、バイパスしてつなげる手術をしました。死んでもおかしくない事故でした。当然の事ですが、腹筋が使えなくて、ベッドに寝ていて首も上げられないんですよ。


岩佐朋彦

─そこから楽器が吹けるまでに復活するには、ものすごい苦労があったと思いますが。
 本当に団員の皆さんにご迷惑をかけながら何とかやって来ました。3週間後に退院して最初に吹いた時には腹筋が使えないので、音が真っ直ぐ伸びませんでした。ハンドルの衝撃で右手の握力は10kgほどしかなくて、右手も以前と同じ形にできなくなってしまい、思うように音が出ないし出ても外れてしまうような状態から始めました。だから、今まで自分が受けてきたいろいろなレッスンを思い出したり、あらゆる教則本を見ながら、もう一度やり直しましたね。お腹もまだ傷口が完全にふさがっていないような状態でしたので、音を張るにはどうしようかと工夫して、それまでの自分の吹き方とは違う吹き方をしなければなりませんでした。
 本番中に嫌になってしまうことも何度もありましたし、それに気を取られてミスをすることもありました。一時期は精神的に参って、クラシックのCDなど聴けない時期もありました。でも息子が生まれたりしたことと、やはりホルンを吹くことが好きだったので、何とかここまで来られました。


─札響では「副首席」という肩書ですが、どんなポジションなんですか。

 1番も3番も吹きますし、アシスタントもするというポジションです。しかしそれぞれ全く違う吹き方をしなければいけないということは肌で感じますね。その吹き分けを1つのプログラムの中でやらなければいけないことが、難しいところだと思います。
 特にアシスタントは難しいですね。1番を邪魔してはいけないけれど、最もきついところでバーンと吹かなければならない。しかも1番と同調して、全体で4人にならなければいけないし、必要なときには5人分の音が出なければならない。そこの変化に対して自分をどうコントロールするかという精神面の大変さですね。本当に上手な人がアシスタントを吹くと、1番吹きはまるで自分が吹いているように錯覚すると言うこともありますから、そういうふうになりたいですよね。
 そういう意味で、やはりアレキサンダーは良いんです。木管楽器にでも金管楽器にでも、他のホルン吹きの音にも寄り添っていけるのがアレキサンダーの特長だと思います。しかもガツンと行きたいときはそう吹けますし。瞬発力もあって柔軟性もあるという感じでしょうか。


岩佐朋彦


日本とは違う空気の中で暮らすことと、同じ学生がものすごく練習することに刺激を受けました

─話を戻すようですが、卒業してからハンガリーに留学されたのですよね。

 ハンガリーのブダペストに2年間留学しました。リスト音楽院でアダム・フリードリッヒ先生に習うことができ、当時ホルンが嫌になっていたのを、もう一度好きにさせてもらいました。先生は以前ハンガリー国立響で吹いていらっしゃって、ブダペスト祝祭管弦楽団の初代首席を務めた人です。僕が習ったときにはもう演奏活動はされていなかったのですが、アレキサンダーの107VというハイF/Bbのセミダブルの珍しいディスカントホルンを吹いていました。何よりも、素晴らしい音楽家であり教育者でした。皆さんご存知のゼンプレーニ・サボージュ氏やラースロ・ゼーマン氏、ミクローシュ・ナジ氏、みんな先生の門下生です。


─そもそもなぜハンガリーに行こうと思ったのですか。

 武蔵野音大に東欧の先生がたくさんいらっしゃったこともあったし、2001年に大学オケのハンガリー公演にも参加したのもきっかけです。ブダペストの街などがすごくきれいで、特に夜景は素晴らしくて、「こんな環境で勉強してみたい」と感じましたし、ドイツに行ってもみんなと同じかなと思ってハンガリーに興味を持ち始めました。実は日本でも山形で行なわれたホルンフェスティバルでフリードリッヒ先生の演奏を聴いたこともあって、美しいヴィブラートや何より音楽の素晴らしさが印象に残っていましたので、受験することにしました。


─ハンガリーではどんな感じで勉強していたのですか。

 レッスンは週に2回あって、1回は伴奏なしでエチュードやオケスタなどを見てもらい、もう1回はコレペティトールによる伴奏付きでした。でも僕は語学が苦手で、先生は英語で言ってくれるのですが、それでもよくわからない。こちらから何か言いたいことがあるときには、英文で手紙を書いて渡していました(笑)。よく先生に朋彦は字は上手だねと言われました。2年目になると「ホルンはいいから、まず語学を勉強してくれ」と言われましたが、自分は日本で仕事をしたいという気持ちが強かったこともあり、ハンガリー語はほとんど勉強しませんでした。そんな生徒でも、最後の最後まで気にかけてくれて、帰国の直前にはカフェでずっと話をしてくれました。僕は半分くらいしかわかっていないのですが、最後には「君に会えてよかった」と言ってくれたのを覚えています。レッスンでもああしろ、こうしろと言うことはなく、先生が前にいて、先生の教えを何度も何度も聞いているコレペティの伴奏に乗っかるだけでよかった。語学ができなかった分、音楽を感じようと努力しました。でも語学が堪能だったらもっと違う世界が見れたのかもしれませんね。残念ですが……。
 あとは月に1回門下生による発表会があり、コンチェルトでも何でも全楽章吹かなければなりませんでした。それはハードでしたが、良い経験でした。他にも年に2回試験があるのですが、無伴奏の曲かエチュード、協奏曲などピアノとの曲、そして何よりもオーケストラスタディを吹く! これはなかなかない試験内容ですよね。山積みになったオケスタの譜面から先生方が一曲ずつ引いて、それをその場で吹かないといけないんです。ハンガリーのお国ものが多くて大変でした(笑)。
 それと何よりも日本とは違う空気の中で暮らすことと、同じ学生がものすごく練習することに刺激を受けました。朝学校に行くと、もう練習室を取るのに並んでいるんですよ。大学に入るときにはすでにオーケストラに席がある人もいて、彼らは朝練して、リハーサルして、授業を受けてから本番のようなことをしていましたね。本当に上手な人が、それだけの練習をするんですよ。しかも、僕ら日本人のレッスンを見に来たりもするんです。人がどんなことをやっているのか知ろうとする探求心もものすごく強かったですね。


ブダペストに留学当時の岩佐さん

ブダペストに留学当時の岩佐さん


─岩佐さんはフリードリッヒ先生のような「古き良き東欧のホルン」のスタイルはどう思いますか。

 憧れがありますね。ティルシャル兄弟がいた時代のチェコ・フィルのホルンセクションなどはやはりすごいと思いますね。知らずに聴いて楽器がアレキサンダーだとは思わないですよね。ああいうふうに、楽器に関係なく「これは岩佐の演奏だな」と思われるような演奏はしていきたいです。フリードリッヒ先生も「ハンガリーの音楽を日本に持ち帰って欲しい」ということではなく、「ここで学んだことを元に自分がやりたいことを膨らませてくれればいいんだよ」と言っていましたので。




ときにはアレキサンダーでも太ベルのような音を出したい

─ところで、岩佐さんはいつからアレキサンダーをお使いですか。

 中学はホルトンのシルバーH379、高校から大学までパックスマンの赤ベルの20Lを吹いていたのですが、大学4年生のときに、都響にいらっしゃった笠松(長久)さんにレッスンを受ける機会があって、その明るい音は僕にとってセンセーショナルでした。「お前の音は暗すぎるんだよ」と言われて、「ちょっと一緒に吹いてごらん。ほら、同じ音を吹いていてもハモらないだろう。それでは、オケプレーヤーにはなれないよ」と。そんなことを言われたのは初めてでした。それから自分の中で音色に対する考え方がガラッと変わりましたね。でも両方知ることができたのは幸運だったので、その良いとこ取りをして行ければいいかなと思っています。ときにはアレキサンダーでも太ベルのような音を出したいと思いますし、もちろんアレキサンダーらしいパリッと張った音も出せなければいけない。そういうふうに幅を広げていけたかなと思います。「いろいろな音があってこそホルンなんだ」と思いますから。


─しかし、笠松さんの影響は大きかった?

 大きかったですね。(笠松さんに)認めてもらえるのならアレキサンダーに変えなきゃと思い、卒業して間もなく103を買いました。周りはみんなびっくりしていましたが(笑)。「(パックスマンに)戻すのはいつでもできる」と思っていましたが、結局ずっとアレキサンダーを吹き続けています。一口にアレキサンダートーンと言っても千差万別じゃないですか。でも、根底にあるブリリアントな響きと、オーケストラのサウンドをまとめ上げるような音を出せるようになるまではと思いながら、模索して来ました。特に今の楽器に替えてからは、求める方向に進む速度が速くなったような気がします。


岩佐朋彦

─現在お使いの楽器はいつ頃買われたのですか。

 2013年の7月です。以前持っていた103は事故でグシャグシャになってしまったのですが、ロータリー周りがなんとか無事だったので、ブレーザーシュトラッセの中村さんにお願いして修理することにしました。引き取りにうかがったときにきれいな楽器が置いてあって「これくらいきれいに直るといいよね」と言っていたら、まさにそれが自分の楽器で、びっくりしました。「大事にしなければ」と思って吹いていたのですが、やはり音は変わってしまいました。もちろん自分の吹き方も以前とは変わっているんですけれどね。
 それで事故の後2年くらい経って調子が上がって来た頃に楽器をトリプルの301に替えました。体力も戻ってきつつあったのでトリプルでも大丈夫かな?と思っていたのですが、実際に吹いてみるとウェイトもありますし、F管、Bb管、ハイF管の音色・音程のバランスを取ることが僕にとっては難しかった。楽器を調整してもらったりマウスピースを替えてみたりもしたのですが、結局は右手だったのかもしれません。しばらく使ってみたのですが、「この楽器で自分の演奏ができるようになるにはまだまだ時間がかかる」と思ったのと、やはりダブルを1本持っておかないとダメかなと思って、現在の103MBLを買いました。


岩佐朋彦

─この楽器で求めるのは?
 求めているのは、先ほども話した通り太い音もブリリアントな音も出せて、どんな楽器とも調和する、でも自分の意思も持っている、そういう音です。欲張りなんですけれども、自分が求めるものがたくさんあって、それを自分がどれだけ実現できるかやっていくのは楽しいことだと思いますからね。いつまでも探究心と挑戦は続けていきたいと思っていますので。




「趣味」のコーナー

バラ

─音楽以外では、どんなことが好きですか。
 ガーデニングが大好きなんですよ。家の裏でバラを育てているのですが、いろいろな色合いがあってきれいですよ。あと子どもが生まれた記念に梅を植えたりとか。ブドウの収穫もできますし、ラズベリーやブルーベリーの実を獲ってジャムを作ったりもしています。
 なぜか北海道なのにハイビスカスも咲いていますよ。南国の花って、見ていると元気が出るんですよね。ハンガリーもそうですけれど、北海道も冬はどうしても灰色が多くなるじゃないですか。でも部屋の中は暖かいのでハイビスカスが冬に咲くんです。オリヅルランなどの観葉植物もそうですが、最初は一株だったものがどんどん増えています。春にはホームセンターに行って「何を育てようか」と草花を見るのが楽しみでしようがないですね。


─休みの日は他に何をしていますか。

 基本的には家族と一緒に過ごすのが好きです。休みの日と言わず、仕事が終わったらすぐ帰って出かけたりとか家族団欒をしています。仕事場から家まで車で20分というのも札幌の良さですね。


─お話を聞いていると、札響はまさにぴったりという気がしますが。

 東京にいればいろいろな仕事はできますけれど、僕は好きな楽器で生活ができれば幸せだと思っていた人なので、今それが実現できているのは札響のおかげだし、今まで教えて来てくれた先生方、楽器のリペアの方々、そして家族みんなのおかげだと思って、感謝しています。




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